第3章 大学入試センター試験の存続は
     是か、非か

 私は、30年を優に超える長い期間、センター入試の存続に大きな疑問を抱きつづけてきました。この第3章ではこの理由を語らせていただきましょう。是非ご高覧下さい。
 皆様に“是か非か”、このことについて真剣に考えていただきたいと心の底から願います。

 私が、センター試験の存続を“非”とする最大の理由は

“センター入試の存続は我が国の将来を危うくする”

という大きな危機意識にあります。

まずは下の図を見ていただきましょう。お話はここから始まるのです。

図1


 上の図で述べている“現状の正しい把握“が、今こそすべての教育者に求められていると思います。勿論、行政、政治そして企業に携わる全ての人達にもこのことが強く求められるでしょう。図2をご覧ください。

図2


 2000年現在、起こりつつあるサイバー社会への急速な移行、この動きの胎動は21世紀幕開けの頃、顕著に認められるようになり、政治家、そして企業のトップクラスの人達も、2000年当時

 “第二の産業革命が起こりつつある!”

との声をあげ始めました。

 しかし、この声に私は非常に“危うさ”を感じました。この声は国家の進路を誤らせるという点で、国家を危うくする非常に危険な思想であったからです。

 何故、こう考えるのでしょうか?まずは下の文章をホームページ(笠原正雄のHP! http://www.masaokasahara.net/internet.html)から引用しましょう。我が国の基本的な考え方、欧米の基本的な考え方の差をこの具体例で知ることができるでしょう。

---以下、引用文です---


 1970年代はじめ、我が国において、世界特に米国で大きな注目を集めた開発研究が当時通産省のサポートを受け、松下電器(現パナソニック)、シャープ、三洋、大日日本電線など民間企業数社と大阪大学が協力して進められていました。e-mail、テレビ、図書館などからの文章データのダウンロードは勿論、電気、水道、ガス料金が自動的に計測され料金も自動的に引き落とされることが可能。さらに外出先からの炊飯器、冷暖房機などの家庭内機器のコントロールすることも可能という先端的プロジェクトが進められ数年の歳月を費やして試作機が完成されました。

 この成果報告は1970年代はじめに、我が国でもテレビ報道され注目されましたが、米国で開催されたWESCONという著名な国際会議で、非常に大きな注目を集めて発表されました(文献[1])。 この発表は

 “これは幻影か.それとも津波か(Mirage or Tidal Wave?)”

と表現され、注目されました。非常に斬新な日本製インターネットの大きな胎動が世界に向け報告されたのです。

 しかし、非常に残念なことに電話ネットワークは我が国では100%国有でしたから、この胎動は結局我が国では “中絶” という処置がとられてしまいました。

 数年の歳月をかけそして国から巨額の補助金をいただいた当時の成果としての試作装置は大阪府生駒山に所在する「生駒サイト」において展示されるだけという存在になりました。世界に大きなインパクトを与えたであろう巨大試作装置はそのまま博物館入りとなってしまったのでした。あぁ・・・。あぁ・・・。あぁ・・・。

 コンピュータネットワークを全国に広げるためにはコンピュータにかかわる当時の通産省、電話事業、ネットワークにかかわる郵政省、土木工事にかかわる建設省が複雑にからんでくるからです。そして何よりも電話事業もどきを民間が始めることにきわめて大きな抵抗があったのです。米国においては電話国有率0%であったのに、我が国では国有率100%でしたからね。

 米国にとっては押し寄せる津波ではなく、幻影として消えてしまったのです。米国は、我が国の態勢では到底、国のサポートが得られないだろう。そして幻影(ミラージュ)として消滅するだろうと考えていたのかも知れませんね。

 私はこのプロジェクトのディジタルの部分を先導的に指導し、全力を傾注していましたので、今でも、非常に残念なことと感じています。(勿論、私は「生駒サイト」の博物館に納められた開発装置は見にも行っておりません。悔しいだけですから・・・)。
 国全体で協力すれば、我が国はインターネット世界の構築のため先導的役割が果たせたのでした。

 しかし、こういった事業が現実のこととして可能となる国は、世界的に見ても電話ネットワークの国有率が全くのゼロパーセントであった米国だけでした。米国には国から一切の制約を受けずに一般市民が自由自在に電話ビジネスを展開することが可能となるとても恵まれた環境がありました。

 米国には一般市民のネットワークが大木に成長できる豊かな土壌がととのっており、インターネットの誕生を国を挙げてあたたかくサポートするという態勢がとられていたわけです。結果的に米国の一際口を挟まないという国としての政策が、非常に良かったと言えるかも知れません。

 米国の国民性でしょう。ハード的に優れたコンピュータを作ることよりも、コンピュータを楽しく使う環境を可能にするソフトを作ることに努力を重ねていました。
 このような米国企業の姿勢はハードを重視する我が国企業の伝統的姿勢とは180度異なる方向でした。(米国の“船”と日本の“船”とは全く反対方向に航行していたのです)。

 1960年代後半、米国では大型コンピュータをタイム・シェアリングで常時使用することができました。私も当時、米国企業に勤務していて、コンピュータを好きなときに、会話型で楽しく使っていました。

 同じ時代、日本ではバッチ処理が中心で分厚いパンチカードの束をコンピュータセンタに提出し、結果を1日、1週間単位での長い時間、待たねばなりませんでした。同じころ、米国では数秒間で結果が出るというのに・・・。

 大きな大きな差がありました。コンピュータを楽しく使う環境づくりでは米国は他国に比べ20年も先を歩んでいたのです。

 米国がネット社会で一人勝ちになったのは、米国が特別に努力したわけではなく、いわば自然に今のような状況になっていったのです。


---以上、引用文です---


 以上に述べたようなこの米国の動きに対して我が国は1970年以降、益々ハードウェア中心の姿勢を強め(ライバルと私が勝手に考えていた)米国は益々ソフトウェア中心に動き、半世紀という長い期間に、我が国との間に驚愕すべき差をつけていったのです。図1に掲げた

 “技術史を修得した上で、将来の方向を正しく予想すること”

という点で米国は一人勝ちだったのです。

 以上のような経緯で1970年以降悶々として過ごしてきた私にとって2000年前後から私の耳には大きく聞こえてきた“第二の産業革命”という声々々!!

 煙突林立、煙もくもく、・・・こんなイメージが湧くではありませんか!

 私の2000年当時の考えは以下のとおりです。

図3





 センター試験は、歴史的には

進学適性検査  1948年〜1954年
共通一次試験  1979年〜1989年
センター試験  1990年〜

出典:Wikipedia,“大学共通1次学力試験”.

という流れで今日に至っていると思います。

 まさに森(産業社会)の中で大きな存在感を示す国家的事業として今日迄存続してきているのです。

(T)森(産業社会)では

 センター試験も同じようなこととなるでしょう。

 同一のセリフのもとに
 同一問題を
 同一時間内に

全国各会場で一斉に解答する。

 “森のくらし”をこれほど色濃く反映している大学入試を前提とした大規模試験は日本のセンター試験に見習った一部の国を除いては全世界的に見て異様な試験といえるでしょう。

(U)21世紀サイバー社会(ネットワーク社会)では


 勿論大学生さん達が活躍する場はネットワークビジネスだけではありません。農林業、漁業あらゆる産業がネットワーク社会に支えられ衣をかえて世界に向け大きく発展することでしょう。地球温暖化などの環境問題もあるところでUターンすることでしょう。

 森(産業社会)から出て、今、人類は草原(サイバー社会)に移り住もうとしています。

“森の生活を象徴するセンター試験よ、さようなら!”


 今、このときが、まさに到来しているのではないでしょうか。




教育歴


・ 常勤大学専任教官として

・大阪大学、同大学院、京都工芸繊維大学、同大学院、大阪学院大学、同大学院

・ 大学院正規科目担当の非常勤講師

・中央大学大学院理工学研究科、大阪大学大学院応用物理研究科
・神戸大学大学院電気・電子工学研究科、広島市立大学大学院情報工学研究科

・ 学部正規科目担当非常勤講師

福井大学工学部,立命館大学理工学部,大阪工業大学工学部,大阪大学理学部,大阪大学人間科学部,神戸大学工学部電気工学科,神戸大学工学部計測工学科,神戸大学工学部システム工学科,岡山県立大学,広島市立大学

・ 大学院集中講義、特別講義非常勤講師

早稲田大学理工学部研究科,名古屋大学大学院工学研究科,北陸先端科学技術大学院大学,奈良先端科学技術大学院大学,九州工業大学大学院

 学部集中講義、特別講義非常勤講師

大阪府立大学工学部,大阪産業大学工学部,広島大学工学部,愛媛大学工学部

(以上26大学)


研究歴


 私の仕事は情報技術(Information Technology)について、
  1. 「情報理論」の分野:信頼性(高品質、高画質、高音質の情報通信・情報記録を実現するための数学的手法を見出す)

  2. 「情報倫理」の分野:倫理性(テレビ等々のメディアがヒトの本質、特に乳幼児世代に与える影響を明確にし、対処法を考究する)

  3. 「暗号理論」の分野:安全性(プライバシィ保護、著作権保護、個人認証について数理的対処法を考究する)
を確保することで、私はこの順に研究のウエイトを置いています。 以下各項目での自己紹介をさせていただきます。

[1の分野におきまして]  この分野への貢献によって米国電気電子学会(IEEE、全世界150ヶ国会員数約40万)より、「ライフ・フェロー」の称号、そして電子情報通信学会(100年の歴史。現在会員数約3万強)より、業績賞、小林記念特別賞(毎年一件)が与えられています。


[2の分野におきまして]
 この分野、“情報通信倫理の分野への著しい貢献”によって、電子情報通信学会より「フェロー(初代)」の称号を授けられています。


[3の分野におきまして]

-----♪♪♪♪思い出されること♪♪♪♪-----


 大学院では、講義(ゼミを含まず)1科目(2単位)担当が全国の大学の普通のパターンですが、大阪大学大学院工学研究科では4科目(8単位)の講義(ゼミを含まず)を担当しました。担当科目の多さという点では全国(学部のある)大学院のトップであったかも知れませんし、今もこの記録は破られていないかも知れません。

 昭和40年代後半、大阪大学大学院 通信工学専攻の学生諸君約70名が、2年間にわたり、電気系約30名の教官(教授、助教授、専任講師)の授業を10項目、例えば、1.準備を十分にしている。 2.分かりやすく説明する。…………といった項目に分け、各項目を10点満点で評価し、全教官に対する評価結果を印刷して各教官にフィードバックしたことがありました。

 私は、このとき良い結果を少しは期待していました。現実に示された初年度調査の結果は、約30名の教官中、獲得した10点の多さを尺度にした定量的データのもとでは、私が二位の人にかなりの差をつけてのトップという期待以上の結果でした。

 私にとって、このことは生涯忘れえ得ない出来事になるとともに、生涯の大きな“励み”、“自信”となって、心の中に留められています。(大阪大学大学院学生70名による授業評価は、教師たる私にとって、生涯、“励み”、“力”を与えつづけてくれたこと、そしてこのことは、40年という長い歳月を経て最早や“伝説”となり、十分な時効の期間を経過したことを考え、本HPで、はじめて心中を吐露させていただいた次第です)。

---♪♪♪♪♪♪---


教育、研究人生の舞台裏で


 教育・研究ばかりの人生だったみたいですが、水泳とコーラスに夢中でした。学生諸君との交流は私の教育・研究を最高に楽しく生き甲斐のあるものにしてくれました。もしこれがなければ私の教育・研究の生涯は無意味であったと言えるでしょう。それに何よりも学生諸君との交流に人生の生き甲斐を感じました。

□ 水泳は、以下のようです。
□ コーラスは
 「京都市民合唱団、ミューズ」、「茨木市民合唱団」、身障児と一緒に歌う「命かがやけ合唱団」等で活躍しました。




 本務校での学部生さん達、大学院学生さん達に対して、私は生涯“友人的先生”だったでしょう。(“友人的”の意味・・・子育ての森ご参照ください)

 私のゼミの学生さん一人ひとりに“学会”という社会の中で堂々と研究発表(プレゼンテーション)することをすすめました。  学内のプレゼンテーションだけでなく、学会という一般社会の場で研究発表することによって、実践的なプレゼンテーション能力がつくと考えたからです。

 勿論一般社会でのプレゼンテーションでは、特に論文内容を一流の内容にすることが必須の条件となりますので、論文づくりは学生さん達にとってかなり厳しい修行となります。(やはり上述・・・子育ての森・・・ご参照ください)

 しかし論文原稿を完成し、学会に送り届ければ、後は楽しい打ち上げコンパです!!夜を徹して飲み、歌いさらには一卓、二卓での麻雀大会です。

 実力アップのための輪講(論文精読)も厳しいものでした。午前10時〜午後9時、昼食、夕食付きで徹底的に議論します。  こんな厳しい輪講会も数回に一回はやはり夜を徹しての飲み会、麻雀大会となるのが普通のパターン、自然のパターンでした。

 関西の私達О大学、K大学と東京のW大学との間で20年以上続いていた大学間共同研究としての二泊三日の合同合宿は、30名〜40名のメンバーという規模でしたが厳しいディスカッションの後の打ち上げは、お風呂、飲み会、麻雀でした。

 半世紀に及ぶ教育、研究生活の中で教師としての生き甲斐は学生さん達との“友人的関係”によって生まれるものと私は確信していましたし、今も強く確信しています。

 非常勤講師での教え子の中に、印象に残った学生も少なくありません。数名のグループで我が家に遊びに来てくれることもありました。なかでも神戸のK大学 工学部 電気工学科3年生に在籍していたM.M君。非常に優秀で、印象に残る存在でした。卒業後M電機に在職し、学会でも活躍していましたが、2年に1回ぐらいのペースで多忙な中を訪ねてくれました。

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